「あの「我々は、罰せられなければならない」という焦り」

ビオランテ以降のゴジラシリーズには、ゴジラの意思を感知できる超能力少女「三枝未希」が登場する。国家や戦争といった巨大なもののメタファーだったゴジラと人間が物語(意味)を共有できなくなっていることに対する苦肉の策だったと思う。彼女が居なければゴジラはただの「災害」になってしまう。
つまり、圧倒的に巨大なもの(ゴジラ)=少女(三枝未希)として扱うことで、物語(意味)を成立させていた。この巨大なものを少女に表象させる、という手法は、もしかしたら後の「セカイ系」の走りだったのかもしれない。」

「エロは股間に来るもので面白さはハートに来るもの
黒歴史はのどから頭の間に来る」

もう少しある分は後日へ。

国技館に行けるチャンスではあったものの、このところ8時半に完売札止めが常態化していて、とてもとても。穏やかに晴れて、上野の伊藤若冲展は2時間待ち3時間待ちだったとか。

某所より。
「漫画やギャルゲーのヒロインの人気はその時代の文化的コードによって変化するという仮説を立ててるんですが、以前は超人気だった眼鏡っ娘も「清楚、真面目」というコードから「腐女子、オタク女」というコードへ時代の認識が移り変わったせいで不人気になったと考えています。」
ジャンルや派閥で考えると、幼馴染みとかメイドとか姉キャラ妹キャラも、それぞれ時代によって栄枯盛衰を余儀なくされてしまう事になるのだろうか。個人の好みとしては永遠があるかもしれないけれど、属性の流行り廃りは避けられない。あるいは、流行り廃りに左右されない核心のような属性はあって、それに異なる肉付けが施されていくだけ、とか。

「ストーリーにそって読むことをやめてしまうと、小説はばらばらのシーンの集まりになる。まるで映写機からはずされた映画のフィルムのように、無数の写真のかたまりになる。ばらばらにした写真にタイトルをつけて、アルファベット順に並べると、それは無秩序な順序で並んだ一冊の写真集になるだろう。 動きがなくなっても、ストーリーがなくなっても、わたしの気を引く写真と、そうでない写真がある。 同じように、小説の中にも、ストーリーがなくなっても、わたしの気を引くシーンと、そうでないシーンがある。わたしの気を引くかどうか、それはたぶん、ストーリーにはほとんど関係がない。」