「>松本まりかの舌足らずな喋りはこう使うんだっ!
 ニーサマは最適解を見せられた気分だよ」

「風守はギルティクラウンの世界から来たオーバーテクノロジー過ぎる・・・」

もう少しある分は後日へ。

輪るピングドラム』の最終回を見てみた。3話くらいまで見て、飛ばして15話だったかを見て、飛ばして最終回だったので話は全く分からなかったかわりにただただ演出を楽しんだ感じ。以下、ふの付く某所より。
「愛の話なんだよ
 なんでわっかんないかなー!
 がまさしくその通り過ぎて」
「>もうちょっと、比喩にケレン味があったら考察しなくても面白い作品になってた
 つかメタファ濫用しすぎでもうメタファやるためにアニメ作ってんじゃないかって感じが
 まあそれが芸風っちゃ芸風なんだけど」
おそらく家族愛の話だったのだろうけど、敢えてアガペーの話だと見なしても面白そう。そして、アガペーというと、今は見られない『Elysion』考の「ちがーう! フェロモンとユダヤ人はどこへにいったんだ!」を連想するので、ローカル保存を引っ張り出して読み返してみた。
アガペーを理解するためには、『理想の姿』や『自分のあるべき姿』というものが前提としてある、という事を頭にたたき込んで欲しい。

 たとえば、「私の理想の姿は年収1000万円で、役職は部長」といったサラリーマンがいたとしよう。ところが、現実にはそのサラリーマンの年収は500万円そこそこで、役職もせいぜい課長代理である。

 つまり、現実と理想の間には大きなギャップがある。そして、このギャップが埋まらなければ、件のサラリーマンは自己のアイデンティティを確立する事が難しい。何故なら、彼が『かくあるべし』と想っているサラリーマン像は、年収が1000万円以上である必要があるからだ。

 こうして現実と理想のギャップで苦しむ人を、救済する概念がアガペーである。「年収500万円だって良いじゃないか。君は君だよ気にするな、という感じで神様は貴方を救ってくれますよ」というのが、キリスト教の神様=愛の神なのだ。」
うーん、ちょっと違うか、やはり家族愛の話だったのか。

「>「お前だったのか」「またお前か」とか言われると楽しい
 まぁおれも最近たぶんそんな感じだと思ってる
 でもさらさらするの超楽しい
 楽しい以上のメリットなんてこの世に必要ない」