「当初のマグダラのマリアは悔悛する姿が強調された。最も罪深い娼婦であっても,深く悔悛すれば救われる代表例などとして扱われた。ゆえに,彼女は地味な描かれ方であった。ところがルネサンスが到来した頃から,「元は娼婦なんだから着飾ってる美女で当然」,「いつかは悔悛すればいいのだから若い内は人生を楽しんで良いというのがマグダラのマリアの教訓」という論理の転倒が行われ,実在の高級娼婦や有力者の愛人をモデルに,きらびやかにも自慢の金髪をたなびかせるマグダラのマリアが量産されていった。その後,宗教改革・反宗教改革の流れで服装自体は地味になるが,一方で金髪美女の設定は残る。
そしてバロック期に今度は「聖女だから,悔悛後・苦行後でも美しさは失われない」という理屈が加わり,さらにアビラのテレサに代表される「法悦」の概念も強調されていく。」

「そういえば、お笑い芸人は、わりあい小説や脚本や原作を書く比率が高い。創話能力の根底は、冗談を作る能力に近いんじゃなかろうか。」

もう少しある分は後日へ。

シルバー人材センターの植木屋さんは、今年は口笛を吹かなかった。来年からは独立するそうで。

某所より。
「SAO読んだくらいでラノベの全てを知っているかのように言うな、うぜえ」という『俺妹・禁書・シャナ世代』を薄笑いを浮かべて見る『ハルヒ世代』に冷たい視線を向ける『ブギポ世代』を親心で見つめる『富士見黄金期世代』を雲を突き破る岩の上から見下ろす『朝日ソノラマ仙人世代』の話してます?
ソノラマ文庫の中でも、漠然と、『クラッシャージョウ』以前以後と『ARIEL』以前以後という3分割をイメージするのは、やはりメディアミックスの印象が強いからだろうなあ。『クラッシャージョウ』と『ARIEL』の中間に菊地秀行の数作と『ハイスピード・ジェシー』のOVAが位置して、おっと、『吸血鬼ハンターD』の後発の映画は2000年だから更に後だった。『獅子王』以前以後と『グリフォン』以前以後という3分割は、こちらは些か苦しいか。

東京駅で買うと駅弁は高いからとトンカツ屋の弁当を買い付けて名古屋へ旅立った。

「しばらくネット落ちしてるあいだに変なことが起こってるようだけど、なんで「あっ苦手なもの見ちゃったしっぱいしっぱい」でそっとブラウザバックですませられないんだろうといつも思う。BLNLエログロ一次二次関係なく。」