「自分のことを「変人」「変態」「変な人」と予防線を張る人が、変だった例しがない。
自分のことを「常識人」「一般的」「普通の」とわざわざ予防線を張る人は、何か企んでるか、何かの自覚が抜け落ちてる。」

「女の子はショタを捕まえればおねショタできるけど、男はおねショタの良さが分かるようになった時にはもうおねショタできない。」

「観測点の数だけ世界は固定されているから、話が噛み合うわけがないって。」

「以前のTwにありましたが「オタクは『書き言葉』で喋ってるから、堅苦しく聞こえる」という説はたしかに。で、対面で話す場合は語気・身振り手振りや「物理的接触(殴打など含む)」など言語以外の要素が大ですが、文章となるとそこらの要素が全部すっ飛んで、退屈に見える。」

「「心が強ければ自殺しなかった」ってのは「体が強ければ事故で死ななかった」って言ってるようなものだと思います。」

もう少しある分は後日へ。

Sleipnir4のバージョンが4.3.3.4000になって、未読タブが青くなる程度の違いは分かった。2の頃に戻った感じ?

某所より。
「「葉鍵コミケのジャンルコードから消えたことで時代の流れを感じる」って文章、一般人に理解できる要素が何一つとしてない感がすごい」
ジャンルコードが消えてもジャンルが消える訳ではなく、いつまでもしつこくしつこく葉鍵愛する人がいて、それはコミケとは何の関係も無い。そういう事が分かるようになるまで結構時間が掛かった。同好の士が集まる事の出来る場はとても大切だとしても、今やそれがコミケに縛られる必要が薄くなってきている。んー、となると、コミケの魅力は混沌さに有るのかなあ。予想外の出会いは楽しい。

「からだの弱い子どもは、「わたしはなんにもできない」という無力感を埋めるために、空想のなかでなんでもできる神様になる。世の中で強いとされているものを身につけるのを夢見て耽る子もいるだろうけど、わたしはそうじゃなくて、世の中の強さの価値観をひっくりかえす、弱さの哲学をつくることにエネルギーを注いだ。弱いわたしが、弱いまま頂点に君臨することのできる哲学。破けてしまいそうな薄さこそ、途切れそうな金切り声こそ、異形のものこそ、見るものより見られるものこそ、つまり弱さこそ、なにより美しいのであって、そこには強さを呑みこんでしまうほどの力があるはずだ。」