「説明ゼリフを減らすコツは、セリフで全部を語ろうとしないことです。登場人物にふさわしいシーンを作り、人物に何らかの行動をとらせたり、小道具に代弁させたりすれば、説明は半分以下ですみ、かつ面白く描くことができるのです。(柏田道夫)」

「同じ概念に対して、片方は名前をつけて話をしていて、もう片方はそうでない(そもそも名前をつけるという発想がない)というだけで相当に面白いと思うんだけどなあ。」

「頭の回転が速いのに成果が上がらない学生というのがようおって、彼ら彼女らに共通するのは「無駄な知識はいらない、無駄なことに頭を使いたくない」という強い志向だった。なので教師としてはそういうのに強制的に無駄なことを考えさせる。すると劇的に一皮むけたりします」

「レイヤー同士で野球拳したとき、好きなキャラが徐々に脱いでく様が見れると思って大興奮で始めたら、最初にウィッグを脱ぎ捨てられたワシの話する?」

「Re:マスターが始まった時
キートンテニュア取れたのか」が大学関係者の間で話題になったといいます」

もう少しある分は後日へ。

コーヒー豆の消費量を調整して、久しぶりにKの所へ投函を目論んでみよう。

ふの付く某所より。
「>今の子って花が落ちる表現通じないのか…
あれって昔の漫画表現なので今だと行為そのもの描いちゃうのだ…
昔の漫画自体読めるところ少ないからね…
古典は見れる場所ないと消え去るのだ」
そう考えると、例えば劇場版『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』で早瀬未沙がジッパーを上げながら登場する場面も、今となっては古典的表現という分類に差し掛かってくるのかな。他に何があったかと脳内検索してみたけれど、榊一郎の『ストレイト・ジャケット』最終巻のラストシーン、思わせぶりにしては些か直球だったかも。

首の不自然な姿勢が背中を経由して心臓に負担を掛けているような痛みと気持ちの悪さ。ツボのマッサージと青竹踏みバンテリンでごまかしてみる。

今日は竹橋方面へ行きそびれて、水道橋からのカオマンガイも食べそびれたので、そのうちまた食べに行きましょう……と、この部分は私信。

「万人をひれ伏させる絶対の正義が有ると勘違いしてる時期が俺にも有りました
「論破」なんてのは同じ価値観を共有する者同士でしか成立しないんだよね
崖の上で犯人を追い詰めても突き落とされるのがオチ」