「まだ自分にとって、何をどのくらいの力・時間でやるのが一番楽しく心地よく最後まで走れるのかみたいなのがわからないうちから、いつのまにか頭の中だけで100点だけを目指していて、80点、70点は論外みたいな固まり方をしかかっていた」

ズートピアすげぇよく出来てるなと思う一方で違和感抱く人の気分もなんとなくわかる…主人公たちは浅はかさも持つし過ちも犯すことで「今これを観ているあなたたちと同じだ」とアピールされるが、本当の意味で同じ位置までは降りてきてくれてないという感覚はある。」

「いつだったか「聖母マリア像はなぜ左手で抱いてるのか。左手で抱くことで心臓に近いからうんたらかんたら」って研究者の記事に「右利きなんだよ!右手で作業するには左手で抱くしかないんだよ!」ってお母さん達の総ツッコミ入ってたの面白かった。」

ネットバトルに勝ち負けなんかあるんかね?
 割と真剣に、バトル自体しない方がいいと思っている。「ご期待に添えず申し訳ありません」「そうなんですか、すごいですね」の二枚看板でだいたいの面倒ごとは避けられる。」

もう少しある分は後日へ。

Chromeの使い方も慣れてきて、特に引っかかる部分が見付からない間は現行のままでいいかな。ブラウザゲーム、スムーズに動く時とマウスのドラッグが引っかかる時の違いは何だろう? キャッシュの溜まり具合かもしれないけれど、必ずしもそうではないような……今まで意識しなかった、時間帯、という可能性はどうだろうか。

ジョーカー・ゲーム』、前後編の「ダブル・ジョーカー」は原作読者のとらわれた思考を逆手に取ったキャラクター配置が愉快。原作の「幽霊」を豪勢に使い捨てて罠を張るとは思わなかった。後編で風機関が集まった料亭の食事に関して、某板の考察が面白くて、9月・伊豆・金目鯛・小茄子・大葉、どこまで深く読み取っていくのだろう。マニアックだ。

「「日本人はキャラ性(人格的同一性を示す記号、キャラクターではない)をきわめていくと必然的にヤンキー化する」「内面よりも行動が重視されることでキャラが立つ」「結果より過程が重要で、今まさに何をなしつつあるかだけが重要」という話はか
なり興味深い。
「ほどほどの不幸や、やんちゃだった過去などは、キャラ性をきわだたせる」というのは、本当にマンガやゲームで人物を描くときにでかいパーツなんですよねえ。」